ウェンズディ

朝、目が覚めたらまだ五時だったけど私はそのまま起きていてしまって、そこからそもそも間違っていたのだと、あとから思った。

とにかく起きてシャワーを浴びて、簡単な朝食を作って食べた。洗面所の鏡にうつった私は、疲れてるように見えた。

サラダに薄いトースト、潰れた目玉の卵に紅茶。薄暗いリビングで、ひとりテレビを見ながら食べる。今日は水曜日だ。ニュースの中ではありふれた事件で何人か人が死んでいて、サラダのレタスは少し痛んでいた。

ずいぶんゆっくり食べたのに、柱にかかった箱の時計の針は、あまり進んでいなかった。食べ終わった食器を流しに運んで洗ってしまうと、もうすることがなくなった私は、食後の散歩に出かけることにした。

夏でも朝早くなら、空気はひんやりしていて気持ちがよかった。

私は家のそばのコンクリートで固められた道を歩いていただけだけど、頭の中では綺麗な草原を散歩していて、もうすこしで鼻歌でもうたえそうだった。

「おはようございます」

やさしい気持ちで道の向こうからやってきたおじいさんに挨拶をしたけれど、彼は汚いものでも見たみたいに顔をしかめて、けたたましい咳払いと共に、痰を道路を吐きすてた。

私の気分も、その道に吐かれた黄色に光る唾液みたいにべったり潰れた。

おじいさんはすぐに立ち去った。私は道にしゃがみ込んで、しばらく空を見ていた。薄青くて清潔だった空の色は、じわじわと端から侵食されていく。染み込む濃い青に侵されて、湧きあがる大きな雲はどこか恐ろしい。包みこまれてしまうような恐怖を感じた。

家に帰ると彼氏が起きていて、ブルーのパジャマとブルーのスリッパ姿で足を組んで、コーヒーを飲んでいた。

「おはよう」

「起きてたんだ、おはよう」

寝起きの彼の声は掠れていたけど、久しぶりにまともな時間に彼氏にあえた嬉しさで、私もコーヒーを飲むことにした。

シンクの隣の棚からやかんを出して、火にかける。たまに気まぐれでセックス中に彼にコーヒーの飲み残しをかけられる淹れたやつ以外には、私の飲むコーヒーはインスタントだ。

お湯が沸く間、ぼんやりと煙で少しすすけている壁をながめていると、そこを虫が這っているのを見つけて、私はそれにフォークを突き刺した。

刺したあと一度まばたきをすると、その虫は消えていたので、私はちょうど沸いたお湯をカップについだ。

こぽぽぽ、というような音をたてたお湯は、たちまち真っ黒に濁ってカップの中心で渦を巻いた。

ミルクを入れると、白と黒が混ざってきれいだったことを思いだして冷蔵庫を開けかけたけど、彼にとめられた。

「やめたほうがいいよ、電気止められてるから、中身腐ってる」

「あの渡したお金で支払いに、行ってきてくれなかったの?」

「あれか、ごめんね、途中で友達に会って使っちゃった。別にいいよね?」

いいよ、と小さく返事した私は、コーヒーを飲んで仕事の支度をした。

「今日は遅くなると思う」

「そっか、頑張って」

私が通ってるのはごく普通の会社で、私は入社したてだけど、成績が悪いからそのうち首になるだろう。

でもそうなったら、また彼に出会う前みたいに、夜働くからいい。私は別に嫌じゃない。かえって嬉しいくらいだ、本当に。

会社では、それなりにいい人もいる。たとえば、私の隣の席の橘さんは、すごくいい人だ。業績はいつも三位以内だし、上司との会話でも、さっと答える。

前に一回だけ、橘さんと話したことがある。入社して本当に最初の週あたり、トイレに行って手を洗ってそのまま出て行こうとしたら、橘さんに呼ばれた。

「ハンカチがないなら貸しましょうか?」

真面目な人だな、最初はそう思った。大丈夫って答えたけど、真っ白で綺麗なおり目のついたハンカチは、私の目に焼きついてしまった。

仕事が終わると、皆いつものグループ同士で帰る。橘さんはいつも一人で静かに帰るけど、私は誘ったりできない。騒がしい電車の窓にうつる人の影は、ゆがんでねじれて溶けている。

帰りにスーパーマーケットに寄って、食料品を買った。パック詰めされた鶏肉と、野菜と、切れていた牛乳と、果物をカートに入れて、押して歩く。果物は彼の好きな梨にした。食後に剥いたら食べてくれるだろう。うつろに響くヒールの音と当たり障りのないバックグラウンドミュージック、お菓子をねだり泣きわめく子供の声が果てしなく続いていく奇妙に明るい夕方のスーパーマーケットが私は苦手だ。

レジを通って支払いを済ませて、白いビニール袋に品物を詰めながら私は考える。いろいろなことを、明日の天気予報を、剥げかけてきた爪のマニキュアを、夕食を作る手順を。

帰宅して買ってきたものを無駄だとは知りながら冷蔵庫にしまって、リビングのカーテンを開けてみたら、何日か前の洗濯物がまだ干してあった。雨で汚れたら干している意味がないな、とぼんやり、手摺の赤いサビを見ていたら、ドアのあく音がして彼の恋人が帰ってきた。タバコ臭いから、またどこかのクラブにでも行ってきたんだと思う。

彼の恋人の履いている、ぴったりとした赤いきつい色のスカートは、太陽を見つめすぎたあとの光のちらつきみたいだ。気持ちが悪くなる。

彼は定期的に、恋人を変える。趣味なのか、長く付き合うのが面倒なのか分からないけど頻繁に。昔の女が出入りしてたりというのも、しょっちゅうだ。

最初のうちはどの女の人も私に気をつかって、私が部屋に入るとぱっと彼の側を離れる。乱れた髪を直して、共犯者めいた微笑みを浮かべて。

だけど、そんなの長く持たない。いまに甘ったるい猫みたいな嬌声が聞こえはじめて、古いマットレスのきしむ音を聞かないように、私はバスルームにこもる。今の女の人とも、きっとそのうちそうなるんだろう。熱いシャワーの下で、少し泣いた。

別にいやなわけじゃないけど。だって最後には彼は、私のところに帰ってきてくれる。ときどき一緒のベッドで眠るし、彼がなにか特別いい気分の時には、セックスをさせてくれる。

でもたまに、羨ましくなることもある。普通の恋人同士みたいな感じの、楽しいおでかけとか、二人だけの静かな夕食とか。この奇妙な関係にいたる前の、二人とかが。

前に一度警察とかが、家に来たことがある。夜の池で私が彼に首を絞めて沈められていたから。

真夜中であたりはすっかり暗く、水も不穏に黒かった。散歩に来ていた。池に着くと彼はそれまで繋いでいた手を離して、私を池に突き飛ばすと自分もじゃぶじゃぶと水に入ってきた。倒れた私が身を起こす前に馬乗りになり、わたしの首を絞めて水に押し付けた。

呼吸音と水のごぼごぼ言う白い泡とが耳を通り抜けて頭の中で反響していた。暴れて叫んで水を飲んだ。苦しかったが、それ以上に彼が何を私に伝えたがっているのかがわからなくて悲しかった。二重の呼吸困難で、肺が潰れそうだった。

あのとき私は、水の中から手をのばして、池に浮かんだ星を取ろうとしていた。どんなに水面をすくっても、指ですぐ星は崩れてしまった。

その後、叫び声を聞いて通報された彼と警察との間でなにかあって、私は結局そのまま彼のところにいた。彼はそれからしばらく優しくて、私を寝かしつけてくれてたり昔みたいにキスをしてくれて、馬鹿みたいだけど嬉しかった。

温かい腕に抱かれて眠れば、どんな悪魔も近寄ってこなかった。今はもうそれも無理で、目を閉じても暗いままで、ちっとも眠ることが出来ない。戸棚の中の薬の空き瓶だけが、だんだん増えて場所をとる。

夕食の時間になったけど、彼も女の人もどこかにいなくなっていて、一人で夕食を作って食べた。鶏肉を焼いたのと温野菜だ。

きれいな皿がついになくなったから、そのまま直にフライパンから食べた。皿洗いは彼の仕事なのに、もう一週間は溜まっている。私が片付けてもいいのだけれど、彼の痕跡が消えてしまう気がして、なんとなく手をつけないでいる。

ふと気がつくと鶏肉は、冷めて白い脂が固まっていた。もうそれ以上口にする気がしなくて、流しにまだ半分以上残ったそれを捨てた。

そのあとテレビで古い映画をみたり、ベッドメイクをして過ごした。どうせすぐに無駄になるけれど。夢なんていつも見ない。

多分私はこのままずっと、いくんだろう。私たちになるから分からない、それを悲しく受けとめればいいかも、もう分からない。明日ももし朝早く目覚めてしまったら、散歩に行こうと思う。