聖夜

神様、今夜エイズ検査に行ったの。
『どこにいるの?今日会えるよね?』
液晶画面をタップする指先はかじかんでいて、感覚が無い。はぁっと吹きかけた息は白く渦巻いて、夜の街中を漂った。
メトロを二駅で降りて、寒さに凍りつく街を歩く。冷たい空気が肺いっぱいに広がり、凍りつく。冬の夜の匂いだ。クリスマスソングの流れる街は、どこを見ても幸せそうな恋人たちと家族ばかり。あたしたち二人も並んで歩いたら、ああいう風に見えるのだろうか。今日みたいな日なら許されると思う。あたしは誰かを愛せますか?
今夜、あたしは生まれ変わる。きっとあなたは飽き飽きしてるかもしれない。馬鹿みたいな話だけれど聞いて欲しかった。
『好きなの』
『好きなの』
『好きなの』
『好きなの』
返信はない。既読もつかない。そう言えば、彼に最後に会ったのはいつだったかしら。ここ二、三日の記憶は、ふわふわとしていてあまりはっきりしない。寒さで涙の滲む目には街並みのイルミネーションが、きらきら輝いてとても綺麗だ。
うさぎのポシェットからポーチを取り出して、ごそごそとかき回して薬の束を掴み出す。シートから錠剤を押し出して、手のひらにいっぱい噛み砕いた。
「見て、雪」
「本当だ」
通りすがりにそんな言葉を耳にして、思わず見上げた暗い空からは、本当に真っ白な雪がひらひらと舞い降りていた。指先の赤くなった手を出して、ひとひらをそっと掬うと、雪は一瞬あたしの手のひらに触れて、それからふわりと溶けて消えた。
そして、あるものを見つけた。
「……猫ちゃん」
雪の積もったガードレールの側に子猫がいた。ぎらぎらした光を放って通り過ぎる車たち。近寄っても猫は動かなかった。しゃがみ込んで手を伸ばすと、ふわふわとした毛並みの白い子猫はもう冷たくなっていて、そっと抱き上げると頭がぐらついた。猫の体の下の雪は、口から吐かれた血で赤く染まっていた。車にはねられたのかも知れないし、烏にやられたのかも知れない。どちらかはわからなかった。
交番に猫を抱いていくと、若いお巡りさんは困った顔をした。
「猫の死骸ですか、うちでは引き取れませんね」
「でもあのまま置いておくのは可哀想で」
「うーん、猫とかって一度死んでしまうと処分するときは可燃扱いなんですよね」
可燃扱い、それはゴミになるのと変わらないことだ。それは嫌だった。こんなかわいい子猫が他のいろんな生ゴミにまみれて燃えていくなんて。
「じゃあ、埋めるのは?」
「それなら大丈夫だと思います。ここに公園がありますよ」
地図で示された公園はあまり遠くなかったので、あたしはそこに行くことにしてお礼を言って交番を出た。
『今何してる?ちょっと寄り道してから帰るね』
途中ドンキに寄ってスコップを買った。スコップはピンク色をしていた。店内は混み合っていて、暖かかった。猫を抱いて店に入るあたしを、店員は奇異な目で見たが注意はされなかった。
子猫を抱えなおして、あたしは店を出る。地図に従って歩くうちに大通りを外れた道は、雪が深くなり、歩きにくくなる。片腕にスコップの入った袋を下げて、もう片方には子猫を抱えたあたしは大荷物で街を歩いていた。街灯の明かりから外れたあたりは暗闇だ。少し寒くなってきた。
あたしは彼と迎えた去年のクリスマスを思い出す。家で二人、チキンとシャンパンを買ってきて、あたしはケーキを焼きクリームを泡立て一緒に食べた。焼き上げたケーキにクリームを塗るあたしの背中に彼は抱きついて、作業を邪魔してきた。
「まだできないの?」
「もうすぐだからお皿並べてて」
「嫌だ」
「もう」
かじかむ左手を街灯に翳す。薬指に嵌る銀の指輪は、その時彼にもらったものだ。
包装紙に包まれた小さな袋を受け取ってあたしは息を飲んだ。
「きれい」
「ダイヤとかじゃないけど」
そう言って照れながら横を向いて頬をかいた彼の首に、あたしは抱きついた。
あれから一年、早いものだ。ざくざくと雪を踏みしめながら、あたしは考える。あの頃は本当に毎日が夢みたいに楽しくて幸せだった。彼がいるだけでよかった。世界に光が満ちていた。そして、でもどんなものにも終わりはやってくるのだった。
あれから彼はだんだん変わっていった。前より怒りっぽくなったし、あたしが髪型を変えたり新しい服を着ても気付かなくなった。料理が口に合わなかったり、お風呂の温度が低かったりすると手をあげるようになった。初めて殴られた時には何がおきたのかわからずに、ただ痛む頬を押さえてぼんやりと立っていた。涙が流れて、呆然としていると彼はあたしを抱きしめて「ごめん」と謝った。
「ごめんな、本気じゃなかったんだ」
「許してくれ」
「愛してるよ」
やがて彼は仕事を辞めてしまった。お酒を飲んで、女の子を街に引っかけに行くときはあたしの財布からお金を抜いていく。その時にしてくれるおもちゃみたいなキスがあたしを支えていた。
いけない。後悔するのは嫌いなのだ。あたしは頭を振って現実に戻る。少なくともあたしだけは彼のことを信じてあげないといけない。
やがて門のついた公園が現れた。高い柵に囲まれた公園は、思ったよりも立派だった。人のいない静かな公園は、敬虔な空気を漂わせた教会のようだった。雪の積もったベンチと、ブランコ、赤いジャングルジム、滑り台があった。中心には大きな池がある。雪を踏みしめて近寄ると、池は黒く凍りついていた。
あたしは子猫を埋める場所を探して、辺りを見渡した。大きなモミの木を見つけて、そこの根元にしようとスコップを取り出す。雪に突き立てると、ざくりと音を立てるそれは氷に代わり始めていた。
ざくざくと無心で穴を掘るあたしは、今日の出来事を思い返していた。
お医者さまの手に光るチューブから、結果が出るまで三分数えた。心臓の音がうるさくて、汗の滲んだ手のひらをワンピースで拭った。目の眩む蛍光灯と、白と黒のタイル貼りの床、薬品臭い空気。
「残念ですが」
お医者さまはただ一言そう言った。そうしてあたしはクリスチャンでも何でもないけれど、神様のバチが当たったんだと思った。
穴が深くなった。辺りは生き物のような土の匂いに包まれていた。ずっと抱きかかえていたので微かに熱が移った子猫はまるで体温があるように感じられたが、それは錯覚だった。子猫はたしかに死んでいた。あたしは子猫を穴の中に下ろし、静かに土をかけた。白い毛並みは土を被り、やがてすっかり姿が見えなくなると、そこはもう亡骸の眠る墓場だった。
あたしは立ち上がり、ワンピースの裾を払った。帰らなければと思った。彼があたしのことを待っているから。
一人分の足跡がついた道を歩いて戻り、駅にたどり着くとメトロに乗って3駅で降りる。
『もうすぐ帰るから待っててね』
『コンビニで何かいるものある?』
返信はなかったのであたしはこうこうとした光りを放つコンビニの前を通り過ぎて、交差点を渡り、アパートに着いた。
かんかんとブーツで音を立てて階段を登り、部屋の前まで来る。鍵を差して扉を開けた。玄関には赤いハイヒールが脱がれていた。あたしは溜息をつく。まただ。 それでもつとめて明るい声を出した。
「ただいま」
あたしは部屋に入った。そして見てしまった。二匹の獣だ。動物の声を立てた二人はあたしに気づかず動作を続けた。
一瞬のことだった。彼の飲み終えたワインの瓶。冷たく厚ぼったいガラスのそれが気がついたら手の中にあって、思い切り叩きつけると飛び散ったものは真っ赤だった。びしゃりとあたしの服に跳ね返る。
「……綺麗」
虚ろにそう言って、腰を抜かしている女の脇に瓶を投げ捨てるとあたしは家を出た。
吹雪の中を走る。顔に触れる冷たいものが雪なのか涙なのかもわからない。大通りの時計台が鳴っている。日付が変わった。クリスマスは終わってしまったのだ。イルミネーションをくぐり抜けても魔法は24時に解ける。神様、街は大停電のニュース。神様、これは地獄からのニュース。