真っ赤な嘘

(去年の秋頃書いてたやつ)

 

ーー今年の寒さは平年並み、十二月に入っても特に雪は降りません。ホワイトクリスマスは残念ですが、期待できないでしょう。
そんなラジオから流れる天気予報をききながら、私はカフェで文庫本を繰っていた。午後四時一五分。彼女が待ち合わせの時間に遅れて来るのは、よくあることだ。
その時、ドアベルの鳴る軽やかな音がして、私の恋人の葵が扉を開き、やってきた。マフラーを顔まで巻き、寒さで鼻の頭を赤くして。
「おまたせ」
「あら」
「麻由理さん、朝ぶりね」
そう言って頬と頬を合わせる、私たちのいつもの挨拶。彼女の首筋からふわりと香る、ラ・ニュイ・ドゥ・ポエム。葵はマフラーとコートを脱いで椅子に掛けると腰掛け、さっさとメニューを開いた。橘葵、一九歳。この子の過剰なスキンシップにも慣れた。
「麻由理さんは何を飲んでるの?」
「私はシナモンティー」
「ふうん。じゃああたしはコーヒー、ブラックで」
水を置きにきたウェイトレスはペンシルを走らせるとお辞儀をし、去っていった。
ここは昔風な喫茶店なので、ウェイトレスは皆、今時珍しい白いカチューシャと紺色のワンピースに、のりのきいたエプロンをしている。制服が可愛い。これも私たちがこの店を気に入って、よく待ち合わせ場所にしている理由だ。葵は大学終わりに、私は仕事の合間にそれぞれ立ち寄り、ティータイムを楽しむ。
「お待たせいたしました。ホットコーヒーでございます」
「ありがとう」
かちり、と硬質な音がして、見ると葵が煙草に火をつけていた。いくつもの石が嵌る惑星を模したライターは、ヴィヴィアン・ウェストウッドだ。
「やめるんじゃなかったの?」
「え?」
「煙草」
「だって口寂しくて」
そう言って次々と吸い潰してゆく灰殻のフィルターには、彼女の赤い口紅がくっきりとついている。いつもそうだ。葵は真っ赤な口紅を好み、鏡に向かって濃く紅をひく。しかしそれは、強く噛みしめる煙草の吸い口によってすぐに拭いとられてしまう。
「もうすぐクリスマスだね」
そう言って持ち上げたコーヒーカップにも、きっと彼女の唇の形が残されているはずだ。私もつられてティーカップに手を伸ばし、もう冷めてしまった紅茶を啜った。
「そうね」
「今年のイブは、麻由理さんも空けておいてくれているんでしょう?あたし、今年はイルミネーションが見たいの。表参道で待ち合わせて二人でイルミネーションを見たら、とびっきり豪華なディナーを食べようよ」
「いいわね」
「それとね、ジャスティン・デイビスの新作のペアリングがすごく可愛いの。シルバーとブラックの色違い。あたしがブラックにするから、麻由理さんはシルバーね」
「そうね」
「だからあたしーー」
ぼんやりと窓から外を行き交う人の流れを目で追うともなく眺めながら、明日の会議の資料について考えていた私は、矢継ぎ早に喋る葵の声が不意に途切れたことに気付くと、はっとし、慌てて彼女に目をやった。
葵は箱から抜き出した煙草を一本、火をつけるでもなく弄びながら、
「麻由理さん、あたしの話をきいてない」
と言うと、それからたちまちカラーコンタクトで紫色をした大きな瞳を潤ませて泣き出した。
「いつもそう!麻由理さんはあたしになんて興味がないの!あたしのことなんてどうだっていいの!」
「葵、ちょっと」
人目をはばかることなく大声をあげる葵に困惑するが、一度この歯車の回りだした葵は止まらない。
「この間だって、デートを急な会議でキャンセルされた時!あたし寂しかった!だけど我慢したのに!キスだってセックスだって誘うのはいつもあたしから!もう嫌!」
「わかった、わかったから、葵、おいで」
私は立ち上がり、葵の隣の席に腰掛けると、カフェのお客さんたちの視線はこの際無視して、大粒の涙を流す葵の頭を抱きかかえた。
「ごめんね、葵」
ゆっくりと頭を撫でる。黒く短い葵の髪は艶があり、触ると暖かかった。葵はしばらく身体を強張らせていたが、やがて力を抜き、身を預けてきた。
「抱きしめるのは狡いよ、許しちゃうじゃん……」
震える声で葵が呟き、私の背中に腕が回された。ゆっくりと頭を撫でてやりながら、私は囁く。
「イルミネーション、私も見たいわ。お揃いの指輪も買いましょう。私がシルバーで葵がブラック。ちゃんときいてたわよ」
「じゃあなんで返事してくれなかったの?」
「夢中で話してる葵があんまり可愛いから、見惚れちゃってたのよ。ごめんね」
嘘であることが私には分かっていた。しかし本当のことを言ったところで、いったいそれが何になるだろう。葵が心身ともに(葵はリストカットをしている)傷つくだけだ。だから私は嘘をつく、いつでも。
「本当に?」
「本当よ」
葵の脇腹を人差し指で撫で上げると、葵はくすぐったがって身をよじった。同時に涙で濡れた白い頬をくぼませて、少し笑顔も見せる。私は内心溜息をつく。よかった、なんとか宥められた。それと同時に心に広がる、歪んだ満足感。
「麻由理さん」
「なに?」
「帰り道にモロゾフのプリンね」
「いいわよ」
葵は立ち上がってにっこり笑うと、ポケットに煙草の箱を押し込んだ。私は伝票を手に取る。
我ながら悪趣味なのはわかっている。そのために葵がどれだけ苦しんでいるのかも。洗面台に並ぶたくさんの精神安定剤の瓶と、刃物で作った左手首のでこぼことした傷跡。ほんの戯れの一言で、彼女の心をずたずたに引き裂くことも、歓喜に打ち震わせられることも、私は知っている。
「ねぇ麻由理さん」
「今度はなぁに?」
「手を繋いで帰ろう?」
いくつも指輪の嵌った華奢で冷たい指が、私の指を握りしめる。握り返すと、整った横顔から八重歯がのぞいて笑顔を見せた。でも。でも、私は。あなたの泣き顔が見たくて、つい子供じみた意地悪をしてしまっていることに、あなたは気づいているかしら。
そうして私たちは手を繋いで家に帰る。昏れなずむ街を、男と女、女と女、男と男、ジャスティン・デイビスの指輪やヴィヴィアン・ウェストウッドのライターや恋や愛で溢れる冬の街を。