両手はとっくに血塗れのままさ

誕生日を迎えてしまった

 

4/12に睡眠薬や安定剤を多量摂取して緊急搬送されて入院してからずっとわたしは心が不安定で足元がおぼつかない

 

21歳、もっと大人かと思っていたよ

 

毎日些細なことで涙ぐんでは安定剤を噛み砕いて深夜にお酒を飲む。ご飯が美味しくない。お腹が空くけどなにも食べたくない。気力は沸くけど行動に移せずに、薄暗くした部屋の散らかったベッドにずっと潜り込んでいてお母さんに詰られたり慰められたりする。

恋人とツイッターを見るのとたまに音楽を聴くのが癒し。でも十分だろう。大学は休学する。

 

明日はバイト。最低賃金以下だけどとにかく楽なバイト。

 

GWは2日働いて1日フリーでも1日は好きなアイドルのトークイベントに1人で行く。

予定を入れれば少なくとも動ける。大学には行けなかったのにね。

 

バイトと予定のない日は心療内科付属のデイケアに行くことになっている。

 

「いったいいつまで明日、明日なんでしょう。なぜいまこの瞬間に苦しい私が終わらないのでしょうか」

いつか本で読んだ思想家のか誰かの言葉。その通りだと思う。

 

自分から変わろうとしなければ、なにも変わらない。自分と向き合う努力。

わたしは本当に苦しい?つらい?なにが悲しい?苦しいならばそれを解決する具体的な方法は?

 

もう二度と笑いたくもない気持ち、いますぐ死んでしまいたい気持ち。本当に?

 

今日はゆっくり休もう。

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ウェンズディ

朝、目が覚めたらまだ五時だったけど私はそのまま起きていてしまって、そこからそもそも間違っていたのだと、あとから思った。

とにかく起きてシャワーを浴びて、簡単な朝食を作って食べた。洗面所の鏡にうつった私は、疲れてるように見えた。

サラダに薄いトースト、潰れた目玉の卵に紅茶。薄暗いリビングで、ひとりテレビを見ながら食べる。今日は水曜日だ。ニュースの中ではありふれた事件で何人か人が死んでいて、サラダのレタスは少し痛んでいた。

ずいぶんゆっくり食べたのに、柱にかかった箱の時計の針は、あまり進んでいなかった。食べ終わった食器を流しに運んで洗ってしまうと、もうすることがなくなった私は、食後の散歩に出かけることにした。

夏でも朝早くなら、空気はひんやりしていて気持ちがよかった。

私は家のそばのコンクリートで固められた道を歩いていただけだけど、頭の中では綺麗な草原を散歩していて、もうすこしで鼻歌でもうたえそうだった。

「おはようございます」

やさしい気持ちで道の向こうからやってきたおじいさんに挨拶をしたけれど、彼は汚いものでも見たみたいに顔をしかめて、けたたましい咳払いと共に、痰を道路を吐きすてた。

私の気分も、その道に吐かれた黄色に光る唾液みたいにべったり潰れた。

おじいさんはすぐに立ち去った。私は道にしゃがみ込んで、しばらく空を見ていた。薄青くて清潔だった空の色は、じわじわと端から侵食されていく。染み込む濃い青に侵されて、湧きあがる大きな雲はどこか恐ろしい。包みこまれてしまうような恐怖を感じた。

家に帰ると彼氏が起きていて、ブルーのパジャマとブルーのスリッパ姿で足を組んで、コーヒーを飲んでいた。

「おはよう」

「起きてたんだ、おはよう」

寝起きの彼の声は掠れていたけど、久しぶりにまともな時間に彼氏にあえた嬉しさで、私もコーヒーを飲むことにした。

シンクの隣の棚からやかんを出して、火にかける。たまに気まぐれでセックス中に彼にコーヒーの飲み残しをかけられる淹れたやつ以外には、私の飲むコーヒーはインスタントだ。

お湯が沸く間、ぼんやりと煙で少しすすけている壁をながめていると、そこを虫が這っているのを見つけて、私はそれにフォークを突き刺した。

刺したあと一度まばたきをすると、その虫は消えていたので、私はちょうど沸いたお湯をカップについだ。

こぽぽぽ、というような音をたてたお湯は、たちまち真っ黒に濁ってカップの中心で渦を巻いた。

ミルクを入れると、白と黒が混ざってきれいだったことを思いだして冷蔵庫を開けかけたけど、彼にとめられた。

「やめたほうがいいよ、電気止められてるから、中身腐ってる」

「あの渡したお金で支払いに、行ってきてくれなかったの?」

「あれか、ごめんね、途中で友達に会って使っちゃった。別にいいよね?」

いいよ、と小さく返事した私は、コーヒーを飲んで仕事の支度をした。

「今日は遅くなると思う」

「そっか、頑張って」

私が通ってるのはごく普通の会社で、私は入社したてだけど、成績が悪いからそのうち首になるだろう。

でもそうなったら、また彼に出会う前みたいに、夜働くからいい。私は別に嫌じゃない。かえって嬉しいくらいだ、本当に。

会社では、それなりにいい人もいる。たとえば、私の隣の席の橘さんは、すごくいい人だ。業績はいつも三位以内だし、上司との会話でも、さっと答える。

前に一回だけ、橘さんと話したことがある。入社して本当に最初の週あたり、トイレに行って手を洗ってそのまま出て行こうとしたら、橘さんに呼ばれた。

「ハンカチがないなら貸しましょうか?」

真面目な人だな、最初はそう思った。大丈夫って答えたけど、真っ白で綺麗なおり目のついたハンカチは、私の目に焼きついてしまった。

仕事が終わると、皆いつものグループ同士で帰る。橘さんはいつも一人で静かに帰るけど、私は誘ったりできない。騒がしい電車の窓にうつる人の影は、ゆがんでねじれて溶けている。

帰りにスーパーマーケットに寄って、食料品を買った。パック詰めされた鶏肉と、野菜と、切れていた牛乳と、果物をカートに入れて、押して歩く。果物は彼の好きな梨にした。食後に剥いたら食べてくれるだろう。うつろに響くヒールの音と当たり障りのないバックグラウンドミュージック、お菓子をねだり泣きわめく子供の声が果てしなく続いていく奇妙に明るい夕方のスーパーマーケットが私は苦手だ。

レジを通って支払いを済ませて、白いビニール袋に品物を詰めながら私は考える。いろいろなことを、明日の天気予報を、剥げかけてきた爪のマニキュアを、夕食を作る手順を。

帰宅して買ってきたものを無駄だとは知りながら冷蔵庫にしまって、リビングのカーテンを開けてみたら、何日か前の洗濯物がまだ干してあった。雨で汚れたら干している意味がないな、とぼんやり、手摺の赤いサビを見ていたら、ドアのあく音がして彼の恋人が帰ってきた。タバコ臭いから、またどこかのクラブにでも行ってきたんだと思う。

彼の恋人の履いている、ぴったりとした赤いきつい色のスカートは、太陽を見つめすぎたあとの光のちらつきみたいだ。気持ちが悪くなる。

彼は定期的に、恋人を変える。趣味なのか、長く付き合うのが面倒なのか分からないけど頻繁に。昔の女が出入りしてたりというのも、しょっちゅうだ。

最初のうちはどの女の人も私に気をつかって、私が部屋に入るとぱっと彼の側を離れる。乱れた髪を直して、共犯者めいた微笑みを浮かべて。

だけど、そんなの長く持たない。いまに甘ったるい猫みたいな嬌声が聞こえはじめて、古いマットレスのきしむ音を聞かないように、私はバスルームにこもる。今の女の人とも、きっとそのうちそうなるんだろう。熱いシャワーの下で、少し泣いた。

別にいやなわけじゃないけど。だって最後には彼は、私のところに帰ってきてくれる。ときどき一緒のベッドで眠るし、彼がなにか特別いい気分の時には、セックスをさせてくれる。

でもたまに、羨ましくなることもある。普通の恋人同士みたいな感じの、楽しいおでかけとか、二人だけの静かな夕食とか。この奇妙な関係にいたる前の、二人とかが。

前に一度警察とかが、家に来たことがある。夜の池で私が彼に首を絞めて沈められていたから。

真夜中であたりはすっかり暗く、水も不穏に黒かった。散歩に来ていた。池に着くと彼はそれまで繋いでいた手を離して、私を池に突き飛ばすと自分もじゃぶじゃぶと水に入ってきた。倒れた私が身を起こす前に馬乗りになり、わたしの首を絞めて水に押し付けた。

呼吸音と水のごぼごぼ言う白い泡とが耳を通り抜けて頭の中で反響していた。暴れて叫んで水を飲んだ。苦しかったが、それ以上に彼が何を私に伝えたがっているのかがわからなくて悲しかった。二重の呼吸困難で、肺が潰れそうだった。

あのとき私は、水の中から手をのばして、池に浮かんだ星を取ろうとしていた。どんなに水面をすくっても、指ですぐ星は崩れてしまった。

その後、叫び声を聞いて通報された彼と警察との間でなにかあって、私は結局そのまま彼のところにいた。彼はそれからしばらく優しくて、私を寝かしつけてくれてたり昔みたいにキスをしてくれて、馬鹿みたいだけど嬉しかった。

温かい腕に抱かれて眠れば、どんな悪魔も近寄ってこなかった。今はもうそれも無理で、目を閉じても暗いままで、ちっとも眠ることが出来ない。戸棚の中の薬の空き瓶だけが、だんだん増えて場所をとる。

夕食の時間になったけど、彼も女の人もどこかにいなくなっていて、一人で夕食を作って食べた。鶏肉を焼いたのと温野菜だ。

きれいな皿がついになくなったから、そのまま直にフライパンから食べた。皿洗いは彼の仕事なのに、もう一週間は溜まっている。私が片付けてもいいのだけれど、彼の痕跡が消えてしまう気がして、なんとなく手をつけないでいる。

ふと気がつくと鶏肉は、冷めて白い脂が固まっていた。もうそれ以上口にする気がしなくて、流しにまだ半分以上残ったそれを捨てた。

そのあとテレビで古い映画をみたり、ベッドメイクをして過ごした。どうせすぐに無駄になるけれど。夢なんていつも見ない。

多分私はこのままずっと、いくんだろう。私たちになるから分からない、それを悲しく受けとめればいいかも、もう分からない。明日ももし朝早く目覚めてしまったら、散歩に行こうと思う。

聖夜

神様、今夜エイズ検査に行ったの。
『どこにいるの?今日会えるよね?』
液晶画面をタップする指先はかじかんでいて、感覚が無い。はぁっと吹きかけた息は白く渦巻いて、夜の街中を漂った。
メトロを二駅で降りて、寒さに凍りつく街を歩く。冷たい空気が肺いっぱいに広がり、凍りつく。冬の夜の匂いだ。クリスマスソングの流れる街は、どこを見ても幸せそうな恋人たちと家族ばかり。あたしたち二人も並んで歩いたら、ああいう風に見えるのだろうか。今日みたいな日なら許されると思う。あたしは誰かを愛せますか?
今夜、あたしは生まれ変わる。きっとあなたは飽き飽きしてるかもしれない。馬鹿みたいな話だけれど聞いて欲しかった。
『好きなの』
『好きなの』
『好きなの』
『好きなの』
返信はない。既読もつかない。そう言えば、彼に最後に会ったのはいつだったかしら。ここ二、三日の記憶は、ふわふわとしていてあまりはっきりしない。寒さで涙の滲む目には街並みのイルミネーションが、きらきら輝いてとても綺麗だ。
うさぎのポシェットからポーチを取り出して、ごそごそとかき回して薬の束を掴み出す。シートから錠剤を押し出して、手のひらにいっぱい噛み砕いた。
「見て、雪」
「本当だ」
通りすがりにそんな言葉を耳にして、思わず見上げた暗い空からは、本当に真っ白な雪がひらひらと舞い降りていた。指先の赤くなった手を出して、ひとひらをそっと掬うと、雪は一瞬あたしの手のひらに触れて、それからふわりと溶けて消えた。
そして、あるものを見つけた。
「……猫ちゃん」
雪の積もったガードレールの側に子猫がいた。ぎらぎらした光を放って通り過ぎる車たち。近寄っても猫は動かなかった。しゃがみ込んで手を伸ばすと、ふわふわとした毛並みの白い子猫はもう冷たくなっていて、そっと抱き上げると頭がぐらついた。猫の体の下の雪は、口から吐かれた血で赤く染まっていた。車にはねられたのかも知れないし、烏にやられたのかも知れない。どちらかはわからなかった。
交番に猫を抱いていくと、若いお巡りさんは困った顔をした。
「猫の死骸ですか、うちでは引き取れませんね」
「でもあのまま置いておくのは可哀想で」
「うーん、猫とかって一度死んでしまうと処分するときは可燃扱いなんですよね」
可燃扱い、それはゴミになるのと変わらないことだ。それは嫌だった。こんなかわいい子猫が他のいろんな生ゴミにまみれて燃えていくなんて。
「じゃあ、埋めるのは?」
「それなら大丈夫だと思います。ここに公園がありますよ」
地図で示された公園はあまり遠くなかったので、あたしはそこに行くことにしてお礼を言って交番を出た。
『今何してる?ちょっと寄り道してから帰るね』
途中ドンキに寄ってスコップを買った。スコップはピンク色をしていた。店内は混み合っていて、暖かかった。猫を抱いて店に入るあたしを、店員は奇異な目で見たが注意はされなかった。
子猫を抱えなおして、あたしは店を出る。地図に従って歩くうちに大通りを外れた道は、雪が深くなり、歩きにくくなる。片腕にスコップの入った袋を下げて、もう片方には子猫を抱えたあたしは大荷物で街を歩いていた。街灯の明かりから外れたあたりは暗闇だ。少し寒くなってきた。
あたしは彼と迎えた去年のクリスマスを思い出す。家で二人、チキンとシャンパンを買ってきて、あたしはケーキを焼きクリームを泡立て一緒に食べた。焼き上げたケーキにクリームを塗るあたしの背中に彼は抱きついて、作業を邪魔してきた。
「まだできないの?」
「もうすぐだからお皿並べてて」
「嫌だ」
「もう」
かじかむ左手を街灯に翳す。薬指に嵌る銀の指輪は、その時彼にもらったものだ。
包装紙に包まれた小さな袋を受け取ってあたしは息を飲んだ。
「きれい」
「ダイヤとかじゃないけど」
そう言って照れながら横を向いて頬をかいた彼の首に、あたしは抱きついた。
あれから一年、早いものだ。ざくざくと雪を踏みしめながら、あたしは考える。あの頃は本当に毎日が夢みたいに楽しくて幸せだった。彼がいるだけでよかった。世界に光が満ちていた。そして、でもどんなものにも終わりはやってくるのだった。
あれから彼はだんだん変わっていった。前より怒りっぽくなったし、あたしが髪型を変えたり新しい服を着ても気付かなくなった。料理が口に合わなかったり、お風呂の温度が低かったりすると手をあげるようになった。初めて殴られた時には何がおきたのかわからずに、ただ痛む頬を押さえてぼんやりと立っていた。涙が流れて、呆然としていると彼はあたしを抱きしめて「ごめん」と謝った。
「ごめんな、本気じゃなかったんだ」
「許してくれ」
「愛してるよ」
やがて彼は仕事を辞めてしまった。お酒を飲んで、女の子を街に引っかけに行くときはあたしの財布からお金を抜いていく。その時にしてくれるおもちゃみたいなキスがあたしを支えていた。
いけない。後悔するのは嫌いなのだ。あたしは頭を振って現実に戻る。少なくともあたしだけは彼のことを信じてあげないといけない。
やがて門のついた公園が現れた。高い柵に囲まれた公園は、思ったよりも立派だった。人のいない静かな公園は、敬虔な空気を漂わせた教会のようだった。雪の積もったベンチと、ブランコ、赤いジャングルジム、滑り台があった。中心には大きな池がある。雪を踏みしめて近寄ると、池は黒く凍りついていた。
あたしは子猫を埋める場所を探して、辺りを見渡した。大きなモミの木を見つけて、そこの根元にしようとスコップを取り出す。雪に突き立てると、ざくりと音を立てるそれは氷に代わり始めていた。
ざくざくと無心で穴を掘るあたしは、今日の出来事を思い返していた。
お医者さまの手に光るチューブから、結果が出るまで三分数えた。心臓の音がうるさくて、汗の滲んだ手のひらをワンピースで拭った。目の眩む蛍光灯と、白と黒のタイル貼りの床、薬品臭い空気。
「残念ですが」
お医者さまはただ一言そう言った。そうしてあたしはクリスチャンでも何でもないけれど、神様のバチが当たったんだと思った。
穴が深くなった。辺りは生き物のような土の匂いに包まれていた。ずっと抱きかかえていたので微かに熱が移った子猫はまるで体温があるように感じられたが、それは錯覚だった。子猫はたしかに死んでいた。あたしは子猫を穴の中に下ろし、静かに土をかけた。白い毛並みは土を被り、やがてすっかり姿が見えなくなると、そこはもう亡骸の眠る墓場だった。
あたしは立ち上がり、ワンピースの裾を払った。帰らなければと思った。彼があたしのことを待っているから。
一人分の足跡がついた道を歩いて戻り、駅にたどり着くとメトロに乗って3駅で降りる。
『もうすぐ帰るから待っててね』
『コンビニで何かいるものある?』
返信はなかったのであたしはこうこうとした光りを放つコンビニの前を通り過ぎて、交差点を渡り、アパートに着いた。
かんかんとブーツで音を立てて階段を登り、部屋の前まで来る。鍵を差して扉を開けた。玄関には赤いハイヒールが脱がれていた。あたしは溜息をつく。まただ。 それでもつとめて明るい声を出した。
「ただいま」
あたしは部屋に入った。そして見てしまった。二匹の獣だ。動物の声を立てた二人はあたしに気づかず動作を続けた。
一瞬のことだった。彼の飲み終えたワインの瓶。冷たく厚ぼったいガラスのそれが気がついたら手の中にあって、思い切り叩きつけると飛び散ったものは真っ赤だった。びしゃりとあたしの服に跳ね返る。
「……綺麗」
虚ろにそう言って、腰を抜かしている女の脇に瓶を投げ捨てるとあたしは家を出た。
吹雪の中を走る。顔に触れる冷たいものが雪なのか涙なのかもわからない。大通りの時計台が鳴っている。日付が変わった。クリスマスは終わってしまったのだ。イルミネーションをくぐり抜けても魔法は24時に解ける。神様、街は大停電のニュース。神様、これは地獄からのニュース。

真っ赤な嘘

(去年の秋頃書いてたやつ)

 

ーー今年の寒さは平年並み、十二月に入っても特に雪は降りません。ホワイトクリスマスは残念ですが、期待できないでしょう。
そんなラジオから流れる天気予報をききながら、私はカフェで文庫本を繰っていた。午後四時一五分。彼女が待ち合わせの時間に遅れて来るのは、よくあることだ。
その時、ドアベルの鳴る軽やかな音がして、私の恋人の葵が扉を開き、やってきた。マフラーを顔まで巻き、寒さで鼻の頭を赤くして。
「おまたせ」
「あら」
「麻由理さん、朝ぶりね」
そう言って頬と頬を合わせる、私たちのいつもの挨拶。彼女の首筋からふわりと香る、ラ・ニュイ・ドゥ・ポエム。葵はマフラーとコートを脱いで椅子に掛けると腰掛け、さっさとメニューを開いた。橘葵、一九歳。この子の過剰なスキンシップにも慣れた。
「麻由理さんは何を飲んでるの?」
「私はシナモンティー」
「ふうん。じゃああたしはコーヒー、ブラックで」
水を置きにきたウェイトレスはペンシルを走らせるとお辞儀をし、去っていった。
ここは昔風な喫茶店なので、ウェイトレスは皆、今時珍しい白いカチューシャと紺色のワンピースに、のりのきいたエプロンをしている。制服が可愛い。これも私たちがこの店を気に入って、よく待ち合わせ場所にしている理由だ。葵は大学終わりに、私は仕事の合間にそれぞれ立ち寄り、ティータイムを楽しむ。
「お待たせいたしました。ホットコーヒーでございます」
「ありがとう」
かちり、と硬質な音がして、見ると葵が煙草に火をつけていた。いくつもの石が嵌る惑星を模したライターは、ヴィヴィアン・ウェストウッドだ。
「やめるんじゃなかったの?」
「え?」
「煙草」
「だって口寂しくて」
そう言って次々と吸い潰してゆく灰殻のフィルターには、彼女の赤い口紅がくっきりとついている。いつもそうだ。葵は真っ赤な口紅を好み、鏡に向かって濃く紅をひく。しかしそれは、強く噛みしめる煙草の吸い口によってすぐに拭いとられてしまう。
「もうすぐクリスマスだね」
そう言って持ち上げたコーヒーカップにも、きっと彼女の唇の形が残されているはずだ。私もつられてティーカップに手を伸ばし、もう冷めてしまった紅茶を啜った。
「そうね」
「今年のイブは、麻由理さんも空けておいてくれているんでしょう?あたし、今年はイルミネーションが見たいの。表参道で待ち合わせて二人でイルミネーションを見たら、とびっきり豪華なディナーを食べようよ」
「いいわね」
「それとね、ジャスティン・デイビスの新作のペアリングがすごく可愛いの。シルバーとブラックの色違い。あたしがブラックにするから、麻由理さんはシルバーね」
「そうね」
「だからあたしーー」
ぼんやりと窓から外を行き交う人の流れを目で追うともなく眺めながら、明日の会議の資料について考えていた私は、矢継ぎ早に喋る葵の声が不意に途切れたことに気付くと、はっとし、慌てて彼女に目をやった。
葵は箱から抜き出した煙草を一本、火をつけるでもなく弄びながら、
「麻由理さん、あたしの話をきいてない」
と言うと、それからたちまちカラーコンタクトで紫色をした大きな瞳を潤ませて泣き出した。
「いつもそう!麻由理さんはあたしになんて興味がないの!あたしのことなんてどうだっていいの!」
「葵、ちょっと」
人目をはばかることなく大声をあげる葵に困惑するが、一度この歯車の回りだした葵は止まらない。
「この間だって、デートを急な会議でキャンセルされた時!あたし寂しかった!だけど我慢したのに!キスだってセックスだって誘うのはいつもあたしから!もう嫌!」
「わかった、わかったから、葵、おいで」
私は立ち上がり、葵の隣の席に腰掛けると、カフェのお客さんたちの視線はこの際無視して、大粒の涙を流す葵の頭を抱きかかえた。
「ごめんね、葵」
ゆっくりと頭を撫でる。黒く短い葵の髪は艶があり、触ると暖かかった。葵はしばらく身体を強張らせていたが、やがて力を抜き、身を預けてきた。
「抱きしめるのは狡いよ、許しちゃうじゃん……」
震える声で葵が呟き、私の背中に腕が回された。ゆっくりと頭を撫でてやりながら、私は囁く。
「イルミネーション、私も見たいわ。お揃いの指輪も買いましょう。私がシルバーで葵がブラック。ちゃんときいてたわよ」
「じゃあなんで返事してくれなかったの?」
「夢中で話してる葵があんまり可愛いから、見惚れちゃってたのよ。ごめんね」
嘘であることが私には分かっていた。しかし本当のことを言ったところで、いったいそれが何になるだろう。葵が心身ともに(葵はリストカットをしている)傷つくだけだ。だから私は嘘をつく、いつでも。
「本当に?」
「本当よ」
葵の脇腹を人差し指で撫で上げると、葵はくすぐったがって身をよじった。同時に涙で濡れた白い頬をくぼませて、少し笑顔も見せる。私は内心溜息をつく。よかった、なんとか宥められた。それと同時に心に広がる、歪んだ満足感。
「麻由理さん」
「なに?」
「帰り道にモロゾフのプリンね」
「いいわよ」
葵は立ち上がってにっこり笑うと、ポケットに煙草の箱を押し込んだ。私は伝票を手に取る。
我ながら悪趣味なのはわかっている。そのために葵がどれだけ苦しんでいるのかも。洗面台に並ぶたくさんの精神安定剤の瓶と、刃物で作った左手首のでこぼことした傷跡。ほんの戯れの一言で、彼女の心をずたずたに引き裂くことも、歓喜に打ち震わせられることも、私は知っている。
「ねぇ麻由理さん」
「今度はなぁに?」
「手を繋いで帰ろう?」
いくつも指輪の嵌った華奢で冷たい指が、私の指を握りしめる。握り返すと、整った横顔から八重歯がのぞいて笑顔を見せた。でも。でも、私は。あなたの泣き顔が見たくて、つい子供じみた意地悪をしてしまっていることに、あなたは気づいているかしら。
そうして私たちは手を繋いで家に帰る。昏れなずむ街を、男と女、女と女、男と男、ジャスティン・デイビスの指輪やヴィヴィアン・ウェストウッドのライターや恋や愛で溢れる冬の街を。